善良と醜悪


山の中で私は腐った。何も見ずに殻の中で腐った。それはぬるく、心地悪い温度が感覚を狂わせていることに気づかずにそのまま育てる。それは親のような愛には耐えられない。貪欲で、また喰らい尽くしてしまうからだ。いくら食べても足りないよ、もっとおくれ、咽び泣くのは誰だ。

そんな醜悪な腐った子供を大人になる前に片付けるには、悲劇を目の当たりにするかどうかで、決まる。悲劇は醜悪な子供を溶かして飲む。するとそれは消化されて、身体になる。善良な行いをする大人の揺るぎない礎になる。大抵の腐った子供は、悲劇を目の当たりにするまえに、もしくは悲劇などないかのように過ごしてしまい、腐ったまま大人になろうとする。悲劇の大小は関係なく、腐った大人になるまえの子供の目で、しかと見なければいけない。悲劇は事実であり、子供の目で見てよく噛んで悲しまなければならない。大人になってしまったらもう悲しくなんかなくなってしまうからだ。悲しいのに悲しく思ってはいけないと、自分に制御をかけられるようになるからだ。待ちなさい。その悲しみは、あなたが噛み砕かなければ、醜悪な腐敗の元になってしまう。

もし、あなたが、大切な人を守りたい時、腐った子供はどうしても邪魔をしてしまう。大切な人へ与えるべき愛を自分のものにしようと、全力で手繰り寄せる。そうなっては大切な人を大切にできない。あなたがあなたの悲しみを噛み砕かないことには、いざ守りたいというあなたの大切なエゴを発揮する時であろうとその手は守る物を間違える。そうならないためにも、悲しいならば泣きなさい。楽しい時に笑えるように。あなたは、自分以外の大切なものを大切にできるように、自らを蔑ろにしてはならない。

醜悪を噛み砕いて飲み込んで善良な大人に成りなさい。それを知らないうちは、いくら歳を重ねようと、あなたは善良でも、醜悪でも、大人でも、無い。